トークセッション「個々の感覚とイメージ」(前半)

佐藤壮広(宗教人類学者)×なかええみ(作曲・構成)


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<なぜ、群声の創作を始めたか?>

佐藤:今日はトークのテーマが、個人を大事にしながら声を出して、でもそれも、本来ハーモニーではなくて、ひとりひとりの声とか、それぞれの歴史を大事にする、一瞬一瞬の場づくりなんだっていう話ですけれども。なぜそういう風なことをやり始めたのですか? 
 

なかえ:ありがとうございます。はじめに、なぜそこに至ったのか?からお話させて頂くことをすごく有り難く思っています。 

・・・甲乙をつけたくなかったんです。

(表現には)テクニックというものはあって、俳優の技があるんです。 そしてまた、歌い手にも技がある。

演出とか監督がいる表現形態では、ある一つの主(ゴール)がある。それに俳優は合わせていったりとか、逆に、(ステレオタイプの)理想に近づいていこうとする人たちを見ていくときに、「お前はどこへ行くんじゃい?」っていう思いがありました。

 

佐藤:うんうん。

 

なかえ:「出会った人と作品を創る」っていうのが、私はいつかからの信条になっています。それはプロもアマも関係なく。

その際に「こういう風になりたい」って理想を掲げる役者さんが多かったり、もしくは演出家が「こうして」って言ったら、そうなる、それは一方通行ですね。 両者の思いが、今そこで変わってもいいはずなんです。いいものは生まれるはずなんですね・・・だから、個人を見たかった。 そして、個人を見るっていうことは、顔、形を見ることではない。その人がどういう生き方をしているかっていう、、、、(この話では)だめかな? 

 

佐藤:いやいや。 

 

なかえ:で、そこに私がまず共感したかった。 そういう人なんだなって、勝手に、思い込みですけれども、そこからスタートしたかったんです。 

・・・みんな(ゴールは)バラバラなんです。誰かの一方的な理想ではない。 

 

<群声の楽譜は目安>

佐藤:今日パフォーマンスを見ながら、歌詞を頂きまして、皆さんお手持ちだと思うんですけれども。合唱ではないっていった時に、素朴に、じゃあ、何を見て、メンバーの皆さんが声を出しているのかっていうのを、素朴な疑問を何となく持ちながら、、、 

 

なかえ:あ、はじめは、ルーズリーフに平仮名とか片仮名を書いていたんです。他のやり方も試みて、色鉛筆を持ってきたりして、「これはね、ピンク色の感じ」とか言ってやったんですね。音を作るために。

 

佐藤:あぁぁ。 

 

なかえ:そういうのをずっと経て、今は普通に五線譜使ってます。(会場、笑い) 

 

佐藤:はい。 

 

なかえ:でも、五線譜は、いつも言うんだけど、「目安」なんです。 五線譜のファとソの間にも音はあるんですね。 ぶら下がったり、また、にじり寄ったり。その間の音は、五線譜で書けないんですね。それを、「にじり」って私たちは呼んでるんです。あと、「にごり」っていう言い方もします。「ここはにごります」って。不協和音のような、、それを、わざと、つくる。 にじっていく。そんな感じです。 

 

 

<「物語」という中心に、個人の内的感動を合わせていく>

佐藤:なるほど。 みんなでまとまると、聴こえる側にとっては、誰々さんの音っていうより、まとまって届きますよね? その、まとまり加減っていうのは、どんなふうにやっているのか。つまり、その場その場っていうと、リハーサルの時だって、その場のパフォーマンスだし、本番もそうだし、初めてやる初発の顔合わせの時だって、実は一期一会、一回のパフォーマンスだと。 その違いというのを、サンガツオモシアトラム主宰のなかええみさんは、どんなふうに、あの、、、

 

なかえ:ありがとうございます。 ええと、いつも違うとは言いながら、理想は伝えます。 

・・・付け加えて、歌には物語(ベース)がありますから、「うたうあなたになってください」って言うんです。 

 

佐藤:あぁ。 

 

なかえ:「あなたがうたう」のは卒業してって言うんです。 「うたうあなた」になってって最後は言います。 「そのものになってくれ」って言うしかないんですね。だから、こうやろう、「タタンタン、タタンタン」って決めてしまうと、相手はやり辛いんですね。だから、そこに、この「タタンタン」に合わせるしかなくなるんです。でも、毎回それだと、「ねぇねぇ、(録音)テープでいいんじゃない?」ってなるんですよ。 

 

佐藤:その方が合わせやすかったり? 

 

なかえ:合わせやすいです、もちろん。 だから、理想があって、その理想というのはやっぱり本(物語)が中心になります。皆で共有していきます。「ここはどんなの?」って、(対話の)言葉が大切になってきます。 しかし、言葉も、みんな違うじゃないですか。 雪も皆それぞれの雪がある。バラバラバラ。それがバックグラウンドなんです、その人の。まるごと大切なんです。 「あなたが見ているのは、これは、あなたが生まれ育った風景でいいよ」 「あなたは何見てるの?それでいいよ。それで、世界を(物語に)合わせて。」っていうふうにもっていきます。 

 

佐藤:はい。

 

なかえ:「これは白い風景」とかいうふうには、絶対にしません。 大切にしているのは、その人のバックグラウンドなんです。その人の(バックグラウンドから出る)内的感動の方が、とても重要なんです。 

 

 

<どうやって創作しているか?>

佐藤:そうすると、今ね、言ってましたよね、作品の中の感じでいくと、、、『雨』、ちょうど今降ってきて、色を添えてくださっていますが、雨が。 「雨」といった時にも、それぞれの雨の音がある、声がある、というふうに。今日は多分、今日しか出せない雨音になってたと思うんですけど。 この、いくつかのモチーフを選ぶ時の、えみさんなりの掴み方ってあるんですか? 今日は、雨とか、馬とか、『鍬を持つ人がいた』は「出てきたから」と仰ってましたが。 

 

なかえ:うんうん。 

 

佐藤:その時々の、テーマ決定しながら創っていく、一個一個のテーマ、出来上がり具合。 

 

なかえ:・・・ 

 

佐藤:もうちょっと世俗的に質問すると、今日のできはどうだったのか、とかね。(会場、笑い)そんな話になっちゃう。 その、できっていうよりも、自分がこう思い描いたものを、多分越えたものが、恐らくね、出てきていると思うんですけど、それに関して、いちパフォーマー、この場を共有する一人の人間として、どんなふうに感じていらっしゃるのかなっていうのを聴きたい。 

 

なかえ:それはもう、みなさんがあって、です。 

 

佐藤:みなさん。

 

なかえ:観客のみなさんが、場にいてくれて、共鳴してくださって、だからこそ、生まれているものですし、(超えたものが)出来上がる。

また、「場」というのがあって、ここの「ゆうど」でやらせてもらっているということと、外で降っている雨が、『雨 あまみ』というものを、より深いものにして下さった。 ・・・作品創りの過程においてですけれども、不思議なものなんですが、「雨をやるんだ」って決めて、『雨 あまみ』を練習し始める。すると、水と関係した何かが、私の周りに溢れるんですね。

 

佐藤:はい。

 

なかえ:そして、いろんなところに行きます。あるところで、旋律が出てくるっていう。そして、旋律の中で、情景が生まれ、意図が出てくる・・・「甘露の法雨」というものがあるんですね。ええと、プログラムにも書いてあるかもしれない。

 

女性のお客様1:書いてある。 景清(かげきよ)。(パンフレット内、出世景清の隣に「甘露の法雨」の記載) 

 

なかえ:景清に書いてあるんだね。ありがとう。あったあった。 雨、甘露の法雨というのは、法(ほう)という、のりですね、のりというのは、教え。 天から落ちてくる教えが、しとしとと身体に落ちてくる、滴っていく、・・・そういう何かしらが、何とな~くふらふらしていると繋がっていくっていうのが、創作する時の、段階っていうふうにお答えするしかないんですけれども。 

 

佐藤:あぁ。 言葉が、先にあるんですか?これもまたまたツッコミを入れますけれども。 

 

なかえ:両方一緒に。 

 

佐藤:両方? 

 

なかえ:だいたい一緒に。繋げていくような感じ。 

 

佐藤:両方一緒に? あぁ、だからまぁ、仲間と練っていきながら、形作っていく感じ? 

 

なかえ:そうですね。 

 

<生活に必要な音や歌>

佐藤:群声というタイトル、やはりユニークだと思いますが、声合わせて、一緒にうたったりする、、例えば音曲、日本の古代、古い時代からもあるんですけれど、研究者はそれを、どちらかと言うと、貴族の嗜(たしな)みと。

 

なかえ:はい。 

 

佐藤:宮廷音楽っていうのが一番良い例でしょうけども、貴族、古代の文学とかみたいに、貴族の人たちは、結構音楽を嗜んでいたと言われています。 だけども、その、お話を伺っていると、別に貴族趣味で、日本古来の声と音とかを掴みにいこうとしているわけではないっていうところが、すごく興味深いなぁと。 

 

なかえ:(懐古や嗜みではなくて)生活の中に音や音楽はあると思っています。 生活音が、すごく私好きなんですね。 

 

佐藤:あぁ。 

 

なかえ:「かたかた」とか、「ことこと」とか。 嫌いなのは、あのバキュームですけれども。やっぱり掃除機はどうしても好きになれない。 

 

佐藤:(笑い) 

 

なかえ:まぁ、その話じゃなかった。ええと、わらべうたって言ったらちょっと簡単になってしまう、「労働歌」など・・声を合わせて大きな仕事をするときに、絶対に音は必要なんです。 

 

佐藤:あぁ。 

 

なかえ:その方が楽に進むし、何か皆で大きな行事をするときに、音が必要になるんです。 本当の話かどうかは分からないですけど、みんなで声を、「わーーー」ってっその声の倍音で、本当にいろんな石が浮かぶかもしれないのですね。『音の形』の台詞にもありましたが・・。 そのぐらい、音っていうのは、力があるものとして、古の時から、血流として、流れているとは思っています。 

 

<「人はなぜうたをうたうのか」>

佐藤:いろんなところで、時々話をすることですけど、民族音楽学を日本で初めて、芸大で講座をつくった、小泉文夫(こいずみふみお)っていう人がいて、彼は、音のフィールドワークで世界中でやっていて、音とか、うたですよね、そういったものの意味、あるいは、「人はなぜうたをうたうのか」っていう現場を歩いてきて、いくつかの、仮説的な結論というか、説明を出しているんですけれども。 その一つに、今、えみさんが仰った、うたそのものは、感情の発露であると同時に、人と繋がったり、労働の現場では、力を合わせる、道具ですよね。声を出して合わせる。これも、古い日本の民謡とかは、地域のお祭り行事なんかにも残っているようです。 

例えば、「木遣り歌」ですとか、或いは、ニシンの網を引く時の網引きの歌ですとか、様々な形で、その地域の産業と結び付いた、お祭りと結び付いたうたが一緒に残っているんですけれども。 これはあの、僕、日本のうたも好きですけど、ブルースを自分でやるんですよね。ブルースの音源を、アメリカのアラン・ローマックスっていう人が、探しに、1944~1945年辺りに、ミシシッピの刑務所に録りに行くんですね。 刑務所に録りに、パーチマン刑務所ってところですけど、パーチマンファームっていう、刑務所内の農場で作業している人達を録りに行くんですけど、声を合わせるときに、やっぱり、リードする、声の上手い、声の良い人がいて、それを、掛け声で、木を、斧を振り下ろして、鉄道の枕木にするような木を切り出していたっていうのもあって。 それってあの、文脈とか文化は違いますけど、まるっきり木遣りの、切り出して里まで降りていくっていうのと一緒でですね、やっぱり、ジャンルは違っても、音で何かこう掛け声を出してそれに合わせて、「(呼応のように口ずさんで)あーあーあ、あーあーあ、んーんーん、んーんーん」って似てるなって思うので。今日は聴きながら、自分の中では、労働歌って今言いましたけれども、生活者の中にある音と声を拾って、それにちょっとスリーコードでメロディー付けたら、ブルースになるんじゃないかって思いながら、僕は聴いていましたけど、そいういうのを今、思い出して、はい。 そういう意図といいますか、そういう捉え方で良いんでしょうか? 

 

なかえ:大丈夫です。どんな捉え方でも合っているんです。 

 

<足下にある声楽的な試みを、地道に場を創りながら行なっている>

佐藤:このお話、実は、もう一個伏線が、伏線というよりも関係がありまして、民俗学の折口信夫(おりぐちしのぶ)って皆さんご存知ですか?柳田國男(やなぎたくにお)と親交のあった人でしたけれども、折口信夫が、日本芸能史、芸能論かな?っていう本を書いて、文庫にもなっていますけれど、その中で、ぽろっと呟いている台詞が怖くてですね。「日本は芸能が発達しなかった。特に、声楽が発達しなかった」ってちゃんと書いているんです。「声楽」とちゃんとこの二文字で書いているんです。 それは、先程の話ですけども、貴族の間では、それなりに、雅楽として声を出したり、音を長~く言って、単語を伸ばしながら、意味を遍く伝えるとか、ゆったりとした宮廷のものとして、雅楽が発達したんだけれども、民衆の生活の中から生まれてくる芸能としては、それほど発達を見なかったというふうに、彼は言ってまして。 まぁそれ、賛否両論あります。いや、そうじゃなくて、江戸時代の商人のうたもいっぱいあるんじゃないかとか、あと、明治に入ってからも、演歌っていうんですかね。 さっきあの、オッペケペー節に相当するようなね、リズムつけて、節をつけて、世相ですとか、心情をそれにのせて。そういうのもありましたけど、でも、思う程発達しなかったというふうに、折口は言っています。 

 この群声の、サンガツオモシアトラムの、今日の試みとか前回の試みを傍で拝見していると、自分たちの足下にある、声楽的な試みを、地道に場を創りながら、行っている営みなんだろうな、というようなことを思いながら聴きました。 

 

なかえ:ありがとうございます。 折口信夫も、言ってましたね。 

 

佐藤:はっきり声楽って書いてましたね、声楽。 

 

なかえ:『うたの発生』、で。 

佐藤:そうです、そうです。 折口信夫の、文章というか、発想の面白いところは、そいういうふうに言われているけれども、そもそもそれはどうやって発生してきたのか。「発生論」と言いますけれども。成り立ちそのものの根源に遡って考えるっていうのが、折口信夫の、一つのこの発想のパターンなんですけれども。 それでやっぱり、先程から質問しているのは、「そもそもなんで?」っていうのが、きれいにまとまって、西洋の合唱とは違う、群声っていうようなものをドカーンと立ち上げたいわけではなくて、今言ったように、現場に立ち戻りながら声を出すっていうところをすごく大事にして場を創ってらっしゃるし、こういう場も、一緒にこう共有する場も、建物も、選ぶわけですよね。 この会場もとっても素敵で、ここじゃなければなかった響きはあるでしょうし。これは、防音設備完備されて、冷房もしっかり効いた中でパフォーマンスしていたら、あの雨の音は、良い形で我々に「あ、雨だ。そうだ」というイマジネーションをくれなかっただろうし。そういったことも考えていらっしゃるのが、すごく分かる、というか。 

 

なかえ:はい。 

 

佐藤:今日、いいなぁと。 

 

なかえ:ありがとうございます。 

 

後半に続く